生きているという、幸福。 [日々。]
私は死にかけたことがある。
こうもあっさり書いてしまうと、結構驚きの対象となると思うけど。
当時、小児科の私の担当医がそういっていたのだから間違いないだろう。
しかも肺炎で死にかけたのだ。
(まぁ肺炎で命を落とす人がないといえば嘘になるけども)
初めは風邪だと思ってた症状が、病院に行ったにも関わらずやたら長引いて。
別の病院で処方された薬で悪化。
これは私も覚えてることだけど、胸が苦しくて。
重苦しい感じ。何かが違う。そう思った。
当時保育園児だった私は、なにか不安で、寝苦しくて夜中に母親に訴えた。
『…ままぁ、むねがくるしいよぅ』
母親は驚いた。
今までそんな訴えはしてこなかった私が、急にそんなことを言い出したのだ。
看護学校に通っていた事のある母のことだ。知識上の対処療法はしてきたのだろう。
なのに娘は一向に快復に向かわず。
自覚症状をうまく表現できないのが、子供という生き物なのに。
そこまではっきりとした異変があったのだ。
いつだったろう。その日のことだったかもしれない。
夜中に病院に連れて行かれた。
まっくらなロビーに点る非常灯の緑色が少し怖くて。
母親に抱かれたまま、重くて熱っぽい体を持て余していた。
ある部屋から白色蛍光灯の明かりが漏れてほっとしたのを覚えている。
看護婦さん。
見知った男の先生。
私はぼうっとしていたところを、母親にぎゅうっと抱きしめられた。
母親は、ないていた。
私はそのまま入院となった。
マイコプラズマ性肺炎。
現代だからこそ辞書に名が載っているが、私が罹患した当時は特定が難しかったらしく。
採血や検査を繰り返し。
下痢や発熱は薬で抑えていたものの、快復に向かうまで――病気を特定し、適合する薬が私に処方されるまでには時間がかかった。確か1ヶ月くらいは保育園を休んでいたように思う。
いわゆる風邪薬に多いアスピリン系のなどの薬は効かず、マイコプラズマに適した薬剤でなければいけなかったのだ。
ごめんな、もうちょっとがまんしてくれ。
担当医がそういってくれたのを覚えている。
あったかい、中年の男の先生だった。
私が元気に走り回れるほど快復し、退院するとき。
母親はその先生にこう告げられたと言う。
「――お母さん、実はね。もう何日か遅かったら、娘さんは助からなかったかも知れなかったんです。」
お母さんが泣いて抱きしめてたでしょう? だから言えなかったんだけど。
本当は危なかったんだ。
あの時連れて来てくれてよかった。
原因を突き止めるのが遅れて申し訳なかった。
もうだいじょうぶですよ。
私が医者になりたいと言った時。
母親は言った。
「――あの先生、どうしているかしらね?」
会えないかな、私がそっちに進めたら。
もういちど会いたい。
会って…言いたいのよ。
こんなに大きくなりました。ありがとうございましたって。
生きているってことは、今ここにあるんだよ。
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